なぜ「二重国籍」はこれほど問題になるのか? 法律・税金・外交から紐解く、国ごとに全く異なる「国籍」の意味
グローバル化が進み、国際結婚や海外での出産、海外からの移住が当たり前になった現代、「国籍」をめぐる状況はかつてなく多様化しています。
実際、2002年(平成14年)には、フィンランド出身で1979年(昭和54年)に日本国籍を取得した弦念 丸呈(ツルネン・マルテイ)氏が、ヨーロッパ出身者として初めて日本の国会議員(参議院議員)となりました。
グローバル化が進み、国際結婚や海外での出産、海外からの移住が当たり前になった現代、「国籍」をめぐる状況はかつてなく多様化しています。
実際、2002年(平成14年)には、フィンランド出身で1979年(昭和54年)に日本国籍を取得した弦念 丸呈(ツルネン・マルテイ)氏が、ヨーロッパ出身者として初めて日本の国会議員(参議院議員)となりました。
その一方で、「二重国籍」という言葉は、日本ではしばしば「日本への忠誠心」といった情緒的な側面や、「法律違反かどうか」という点で語られがちです。しかし、2016年頃に大きく注目された、小野田紀M美氏(自民党)と蓮舫氏(元民進党代表)のケースを詳しく見てみると、問題の本質はもっと別の場所にあることがわかります。
ちなみに、近代化を急いだ明治時代にも、海外経験を持つ指導者は多くいました。伊藤博文や大久保利通、津田梅子といった人物たちです。ただ、彼らの多くは日本で生まれた後に欧米へ留学・視察し、その経験を日本の発展に活かしました。当時は、弦念氏や小野田氏のように海外で生まれたり、海外から移り住んだ人物が日本の政治の中枢を担うことは、時代的背景(鎖国など)からも極めて稀でした。
現代の二重国籍問題は、まさにこの「人の移動」が双方向かつ大規模になったからこそ顕在化した問題なのです。
そして「二重国籍」と一口に言っても、その「重み」は国によって全く異なります。
この記事では、この二つの事例を比較しながら、国籍という制度が持つ多様な側面と、日本の国籍法が抱える根本的な課題について、分かりやすく解説していきます。
まず、日米の二重国籍だった小野田紀美氏のケースから見ていきましょう。彼女の事例は、アメリカという国が「国籍」をどう捉えているかを象徴しています。
アメリカの国籍制度が他の多くの国と根本的に異なる点、それは「市民ベース課税(Citizenship-Based Taxation: CBT)」を採用していることです。
これは、「アメリカ国民である限り、世界のどこに住んでいようとも、その全世界の所得に対してアメリカ政府に税務申告し、納税する義務を負う」という制度です。
日本の私たちが採用している「居住地ベース課税」(日本に住んでいる人が日本に納税する)とは全く発想が違います。
このCBT制度は、海外に住むアメリカ市民にとって、非常に重い行政的・経済的負担となります。二重課税を避けるための控除制度はありますが、手続きは非常に複雑です。
この「納税義務」から逃れる方法はただ一つ、アメリカ国籍を離脱することだけです。しかし、アメリカ政府は、そう簡単には離脱させてくれません。
小野田氏は、このアメリカの法制度に則り、正式な手続きを踏んで国籍を離脱しました。彼女が直面したのは、法律が明確に定めた、「高コストだが、手続きすれば必ず終わる道」でした。
彼女のケースは、二重国籍問題が「忠誠心」の問題である以前に、個人にとって極めて厄介な「国際税務問題」であることを示しています。アメリカ国籍とは、単なるアイデンティティではなく、生涯続く経済的な負債を伴う「契約」なのです。
次に、日本と台湾(中華民国)の二重国籍だった蓮舫氏のケースです。彼女の事例は、小野田氏とは全く異なる次元の、「外交問題」と「法的な曖昧さ」に直面しました。
蓮舫氏の問題がなぜあれほど複雑化し、長引いたのか。その最大の理由は、日本政府が台湾(中華民国)を公式に「国家」として承認していないという事実にあります。
日本は1972年の日中共同声明以来、「中国は一つ(中華人民共和国)」という立場をとっています。
この外交政策が、日本の国内行政に巨大なパラドックス(矛盾)を生み出します。
「存在しない国」の国籍を、どうやって「離脱した」と法的に認定すればよいのか。これが、日本の行政機関が直面した最大のジレンマでした。
蓮舫氏は、台湾当局から「国籍喪失許可証書」を取得し、これを日本の役所に提出しました。
しかし、報道によれば、この「外国国籍喪失届」は「不受理」とされました。
これは、日本の行政が、台湾(中華民国)政府が発行した公文書を「外国の公文書」として正式に受理することをためらった、あるいはできなかったことを示唆しています。外交上の立場と、個人の戸籍事務という現実が衝突した瞬間です。
その結果、法務省の指導のもと、彼女は「外国国籍喪失届」の代わりに、「国籍選択の宣言」という別の手続きを行いました。
この「宣言」は、あくまで「努力義務」を課すものであり、離脱が完了したことを意味しません。
この行政上の混乱と、それに伴う説明の変遷が、格好の政治的攻撃材料となりました。「説明が二転三転している」「不誠実だ」という批判です。
しかし、蓮舫氏のケースの本質は、個人の資質以上に、日本の外交政策が生み出した「法的ブラックホール」にありました。彼女は、明確なルールのない、矛盾に満ちたフィールドで戦うことを強いられたのです。
アメリカ国籍のように「高額だが明確な手続き」が存在するのではなく、「そもそも手続きのゴールが法的に曖昧」という状況でした。この脆弱性が、問題を個人の誠実さの問題へとすり替え、政治的ダメージを深刻化させる原因となりました。
小野田氏と蓮舫氏のケースは、二重国籍問題における核心的な違いを浮き彫りにしています。両者の結末が異なった要因は、個人の対応以上に、対象となった「外国」の法的・政治的地位の違い、特に日本政府による承認の有無にあったと考えられます。
小野田氏のケースは、法的手続きが明確に定められた主権国家(米国)が相手であったため、コストは高いものの、手続きを完了することで問題を終結させることができました。一方、蓮舫氏のケースは、日本が国家として承認していない台湾が相手であったため、日本の法務行政自体が外交上の立場と矛盾し、明確な法的プロセスを提供できないという根本的な問題に直面しました。
この二つの事例は、日本の国籍法そのものが抱える根本的な問題も明らかにしました。
日本の国籍法は、単一国籍を原則としています。20歳(改正前は22歳)までに国籍を選択する義務があり、選択しない場合は法務大臣が「催告」でき、それでも選択しない場合は日本国籍を失う、と定められています。
しかし、この「催告」は、法律ができてから一度も行使されたことがありません。
国は「単一国籍が原則」という厳しい建前を掲げる一方で、国籍を剥奪するという人権上の重大な影響を恐れ、法の執行を意図的に停止しているのです。
この「建前と現実の乖離」が、非常にいびつな状況を生んでいます。
これは、透明性を罰し、問題を曖昧に放置することを奨励するシステムと言えます。現在の日本の国籍法は、グローバル化の現実に追いついておらず、むしろ政治的な混乱を生み出す温床となってしまっているのです。
小野田氏と蓮舫氏の事例は、二重国籍問題を「忠誠心」や「個人の誠実さ」だけで語ることが、いかに不毛であるかを示しています。
私たちは、国籍というものが、国によって全く異なる「重み」を持つことを理解する必要があります。
そして何より、日本自身の国籍法が「単一国籍」という建前を掲げながら、その実態は「事実上の容認」となっている矛盾を直視しなければなりません。
この曖昧な状態を放置し続ける限り、今後も国際的な背景を持つ個人が、その出自を理由に不必要な政治的攻撃にさらされ、法的な混乱に巻き込まれ続けるでしょう。
グローバル化が進む時代にふさわしい、透明性のある一貫した国籍制度とはどのようなものか。今こそ、感情論ではなく、制度そのもののあり方を冷静に議論すべき時が来ています。
この記事のポイントを要約