本記事では、一見すると全く異なる二つの事象――実業家の田端信太郎氏が上場企業役員らへの批判で侮辱罪の容疑で書類送検された事件と、プロスポーツ、特にプロ野球(NPB)における「ヤジ」とSNS誹謗中傷の扱いの不均衡――を取り上げます。
これら二つの事例は、奇しくも「侮辱罪」という法の刃が、憲法で保障された「表現の自由」や、社会の健全な発展に不可欠な「批判の文化」を、いかに危うい形で削ぎ落とそうとしているかを示しています。
本稿の目的は、私、中山仁智の視点から、これら二つの事例を深く掘り下げ、法と実態、そして憲法(特に第21条:表現の自由)との間に生じている深刻な「歪み」を明らかにすることです。私たちは今、個人の尊厳を守るという正義と、自由な言論という民主主義の根幹が衝突する、重大な岐路に立たされているのです。
第1章:田端信太郎氏の事件が示す「公人」批判の萎縮
まず、現代の日本社会における「言論」のあり方を揺るがす象徴的な事件として、田端信太郎氏のケースを考察します。
事件の概要と社会に走った衝撃
2025年9月、田端氏は、自身が株主でもある上場企業に対し、その経営方針や従業員のメディア露出について、SNS(X)上で批判的な投稿を行いました。その結果、当該企業の役員および従業員に対する侮辱罪の容疑で書類送検されたと報じられました。
この一報は、SNS上で活発に議論を行う層、特に企業経営や株式投資に関心を持つ人々に大きな衝撃を与えました。なぜなら、これは単なる一個人の「悪口」が罰せられたという単純な話ではなく、資本主義社会の根幹である「株主による経営監視」という行為そのものが、刑事罰の対象とされたに等しいからです。
論点1:上場企業役員は「公人」ではないのか?
本件の最大の争点は、「上場企業の役員は、侮辱罪の適用において一般人と同等に扱われるべきか」という点にあります。
私は、上場企業の取締役、特に代表権を持つ役員は、政治家や公務員と同様の「みなし公人」、あるいは「準公人」として扱われるべきだと考えます。なぜなら、彼らは株式市場という公の場を通じて広く一般から資金を調達し、社会的なインフラとも言える「企業」の経営を担っているからです。その経営判断一つひとつが、株主はもちろん、従業員、取引先、そして日本経済全体に多大な影響を与えます。
彼らがその重責に伴う高額な役員報酬を得ている以上、その職務執行に対しては、一般人よりもはるかに強く、厳しい批判や監視に晒されることは当然の責務と言えます。株主が、自身の投じた資金の運用責任者である経営陣に対し、SNSという現代の「広場」で「経営能力がないのではないか」と厳しく問うことは、株主アクティビズム(物言う株主)としての正当な権利行使です。
今回の侮辱罪適用は、この健全なガバナンス機能を「侮辱」というレッテル貼りで封じ込めるものです。これは「言論統制」に限りなく近い行為であり、経営陣にとって都合の悪い批判を封殺する「スラップ(恫喝的)訴訟」ならぬ「スラップ刑事告発」の悪用例となりかねない強い危険性をはらんでいます。
論点2:社員への批判と「間接表現」の罠
次に、一般従業員に対する侮辱罪の適用についてです。田端氏の投稿には、メディアに登場した従業員に対する「無能」といった表現も含まれていたとされます。
大前提として、一般の従業員は役員とは異なり「公人」ではありません。彼らのプライバシーや人格権は手厚く保護されるべきであり、個人を特定した上での過度な攻撃が許されないことは論を待ちません。
しかし、このケースを詳細に見ると、その批判は従業員個人というよりも、むしろ「そうした人物を採用し、メディア対応をさせている会社の経営・広報戦略」に向けられた「間接的な批判」と解釈するのが妥当ではないでしょうか。
もし、このような間接的な組織批判までをも「(社員個人への)侮辱罪」として広義に解釈し、罰していくのであれば、私たちは今後、企業や組織のいかなる不祥事や不適切な対応に対しても、具体的な事実を挙げて批判することができなくなります。例えば、「あの企業の窓口対応は不十分だ」と書いただけで、「窓口担当者個人への侮辱だ」とされてしまう社会です。
これは、憲法21条が保障する「表現の自由」の著しい制限に他なりません。批判の自由が失われた組織が自浄作用を失い、腐敗していくことは、歴史が証明しています。
論点3:司法・行政に求められる説明責任
今回の書類送検という判断は、2022年の侮辱罪厳罰化が、いかに曖昧な基準のまま運用され始めているかを露呈しました。
「侮辱」とは、突き詰めれば個人の主観的な「感情」の問題です。どこからが「正当な批判」で、どこからが「違法な侮辱」なのか。その線引きは極めて曖il昧です。この曖昧な法律が、警察や検察の裁量によって恣意的に運用されるならば、権力側(この場合は企業側)にとって都合の悪い言論を弾圧する強力な武器となります。
株主アクティビズムの萎縮は、企業ガバナンスの形骸化を招き、ひいては日本市場全体の信頼性を損ね、経済の停滞にもつながりかねません。
法務省や裁判所は、侮辱罪の適用、特に「公人性」を帯びた存在への批判に関する適用が、憲法上の極めて重い判断であるという事実を再認識し、国民が納得できる明確な基準と、その判断理由を説明する責任があります。それを怠るならば、司法・行政は「表現の自由」の番人ではなく、その抑圧者であると批判されても仕方がないでしょう。
第2章:スポーツ文化と「ヤジ」規制の不均衡
田端氏の事件が「経済・言論空間」における侮辱罪の歪みを示すものだとしたら、次に取り上げるスポーツ界の問題は、「大衆文化空間」における歪みを象徴しています。
私は、NPB(日本プロ野球)を中心としたスポーツ団体の最近の動向、特に「ヤジ」と「SNS誹謗中傷」の扱いにおける深刻な不均衡を問題視しています。
論点1:SNS監視だけが先行する「二重基準」
近年、スポーツ選手個人に対するSNS上での粘着質な誹謗中傷が深刻化し、各球団・団体が対策に乗り出しています。その一環として、AI(人工知能)を活用したSNS監視システムの導入を検討・推進する動きがあります。
選手の人格権を守るという目的自体は、私も全面的に支持します。ネット上の匿名性を隠れ蓑にした過度な攻撃は、断じて許されるべきではありません。
しかし、私が疑問に思うのは、なぜ「SNSの規制」だけがこれほどまでに先行し、強化されるのか、という点です。一方で、リアルな空間である「球場」での問題は、長年にわたり放置、あるいは黙認されてはいないでしょうか。
球場では、選手や審判に対し、SNSの比ではないほど汚い言葉でのヤジが日常的に飛ばされています。さらに深刻なのは、施設管理の杜撰さです。例えば、横浜DeNAベイスターズの本拠地である横浜スタジアムでは、過去にフェンスが倒壊し観客が負傷する事故が起きるなど、一歩間違えば人命に関わる重大な危機管理上の問題が指摘されてきました。
SNSの「言葉」はAIで監視・規制しようとする一方で、リアルの「安全」や「秩序」の管理は球団任せで杜撰なまま。NPBが本気でファンや選手を守る気があるのなら、SNS対策の前に、まず球団の施設管理責任を厳格に問い、DeNAのような事例に対しては球団の権利剥奪や重い罰則を科すくらいの厳格な姿勢を示すべきではないでしょうか。
この点において、Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)の対応は、NPBよりもはるかに「まとも」です。Jリーグは、熱狂的なサポーター文化を尊重しつつも、発煙筒の使用や差別的なチャント、器物損壊といった明確なルール違反に対しては、クラブに対し厳格な罰金や無観客試合といった重い罰則を科し、毅然とした対応をとっています。
NPBがリアル(球場)の管理責任を果たさないまま、バーチャル(SNS)の言論統制だけを強化するのは、本末転倒な「二重基準」と言わざるを得ません。
論点2:「ヤジ」はスポーツ文化の一部か?
ここで、「ヤジ」そのものの扱いに踏み込みます。スポーツ団体は、SNS誹謗中傷と球場のヤジを同一視し、その両方を「侮辱」として排除しようとしているように見えます。
しかし、スポーツの本質とは何でしょうか。それは、オペラやクラシックコンサートのような「お上品な鑑賞」ではなく、ファンと選手が一体となり、喜怒哀楽を爆発させる「熱狂的な大衆文化」にあるはずです。そして「ヤジ」は、その熱狂の(たとえ洗練されていなくとも)一部として、良くも悪くもスポーツ文化を形成してきた歴史的側面があります。
もちろん、選手の家族を侮辱したり、人種・性別・出身地などを揶揄したりする差別的なヤジは、断じて許容できません。それは「侮辱」であり「ヘイトスピーチ」です。
しかし、「今のプレーは何だ!」「気合を入れろ!」といった、選手のパフォーマンス(職務執行)に対する叱咤激励までもが「侮辱罪だ」として一律に禁止される社会を想像してみてください。それは、コロナ禍で私たちが経験した、声も出せず、ただ座って拍手するだけの、あの無味乾燥な「コンテンツ消費」への逆戻りです。
スポーツから熱狂が失われれば、ファンは冷め、スタジアムから足が遠のきます。スポーツ団体は、安易な規制強化が、自らの首を絞める「逆効果」になる可能性を真剣に考慮すべきです。
論点3:球団の「施設管理権」と「治外法権」化の懸念
球場内の秩序維持は、第一義的には球団の「施設管理権」に基づいて行われるべきです。球団は、差別的・脅迫的なヤジを飛ばす観客を特定し、退場させ、出入り禁止にする権利と義務を持っています。
しかし、前述の通りNPBの多くの球団がこの権利行使に及び腰である一方で、SNSという「球場の外」の言論には厳しく介入しようとしています。このままでは、SNSは厳しく監視されるのに、球場内だけは(球団が対応を怠る限り)何を言っても許される「治外法権」の空間となってしまうという、最悪の歪みが生じかねません。
私は、スポーツ団体(NPBやJリーグなど)が共同で、「スポーツにおける応援とヤジに関するガイドライン」を策定し、共同声明として発表すべきだと提案します。
そこでは、「ヤジはスポーツ文化の一部であることを認め、選手のプレーに対する叱咤激励は許容する」という基本姿勢を明確にしつつ、「ただし、差別、人格否定、家族への誹謗、脅迫に類するヤジは断固として禁止し、施設管理権に基づき厳格に対処する」と宣言するのです。
このように、リアルとSNSにおける「差別化宣言」を行い、明確な線引きを示すことこそが、文化を守りつつ秩序を維持する唯一の道です。
論点4:技術(AI)の偏った利用
最後に、技術活用の問題です。AIという最先端技術を、なぜ審判の判定補助や、スタジアムの安全管理(危険行動の察知など)といった、公平性や人命に関わる重要な分野に優先的に導入しないのでしょうか。
技術を、選手やファンのパフォーマンス向上や安全確保ではなく、ファンの監視・規制という「統制」の道具として先行利用する姿勢は、スポーツビジネスが「独裁的なビジネス」に変質していることの表れではないかと、私は強く危惧します。
第3章:憲法21条(表現の自由)と侮辱罪の「あるべき距離」
ここまで、田端氏の事件(経済・言論空間)とスポーツのヤジ問題(大衆文化空間)という、二つの異なる領域における侮辱罪の問題点を分析してきました。
一見無関係に見えるこの二つの事象は、実は「公の場における批判的表現を、侮辱罪がいかに制限しうるか」という点で、根深く共通しています。
「公人性」の再定義と批判される「宿命」
田端氏の事件で論じた「公人性」は、スポーツ選手にも当てはまります。プロスポーツ選手は、その卓越した技術を公の場で見せることを職業とし、ファンからの注目と人気を対価に高額な報酬を得ています。
彼らもまた、その職業的側面(=プレー)においては、ファンからの厳しい批判やヤジに晒される「宿命」を背負っています。これは上場企業役員が株主からの厳しい追及に晒されるのと同じ構造です。
もちろん、彼らの私生活や人格そのものが無制限に攻撃されて良いわけがありません。問題は、その「職業的側面への批判」と「個人としての人格攻撃」との境界線です。現在の侮辱罪の運用は、この境界線をあまりにも安易に「人格攻撃」側に広げすぎているのです。
侮辱罪の「謙抑性」とリアル/ネットの非対称性
刑事罰は、社会秩序を維持するための「最後の手段」でなければなりません。これを刑法の「謙抑性(けんよくせい)」の原則と呼びます。
特に侮辱罪は、「侮辱された」という個人の主観的な感情を根拠に成立しうる、極めて曖昧な犯罪です。だからこそ、その適用は最大限、謙抑的(慎重)でなければなりません。
さらに、提供された資料(私の過去のX投稿)でも指摘した通り、リアルな場でのヤジと、ネット上の誹謗中傷は、その性質が全く異なります。
- リアル(球場)のヤジ: その場で発せられ、その場で消えていく「一時的」なものです。拡散性も限定的です。(もちろん、録音・拡散されれば別ですが、基本性質として)
- ネット(SNS)の誹謗中傷: サーバーに記録が残り続ける「永続性」、不特定多数に瞬時に拡散される「伝播性」、そして「匿名性」という特徴を持ちます。
野球選手への「打てねえなバカ!」というヤジが、球場で一人の観客によって叫ばれることと、SNS上で何千、何万というインプレッションのもと、数年間にわたって粘着的に投稿され続けること。この二つが被害者に与える精神的苦痛は、全く質が異なります。
この非対称性を無視し、両者を「侮辱罪」という一つの網で一律に罰しようとすること自体に、根本的な無理があるのです。ネット上の粘着質な誹謗中傷には厳しく対処しつつも、リアルの場での一時的な(差別的・脅迫的でない)感情表現まで、刑事罰の対象とすることは、人権(表現の自由)の過度な制限につながります。
憲法が保障する「健全な批判」
憲法第21条が「表現の自由」を絶対的な権利として(公共の福祉による一定の制約はありつつも)保障しているのは、なぜでしょうか。それは、表現の自由が、私たち国民が権力(政府、大企業、スポーツ団体など)を監視し、批判するための最も重要な武器であり、民主主義社会を支える基盤そのものだからです。
現在の侮辱罪の拡大解釈的な運用は、この「健全な批判」までも「侮辱」として罰の対象とし、社会全体を萎縮させています。
田端氏の事件は、大企業経営陣への批判を封じます。 スポーツのヤジ規制は、ファンコミュニティの熱狂と自浄作用を奪います。
どちらも、結果として権力を持つ側(経営陣、スポーツ団体)にとって都合の良い、「モノ言えぬおとなしい」社会を作り出すことにしかならないのです。
おわりに:私たちが目指すべき「自由で活発な議論」のある社会
2022年の侮辱罪厳罰化は、ネット社会の闇に苦しむ人々を救うための一歩であったはずです。その志を否定するものではありません。
しかし、その運用が一度道を間違えれば、その刃は容易に「表現の自由」を切り裂き、私たちは「モノ言えぬ社会」へと逆行してしまいます。良薬も量を間違えれば猛毒となるのと同じです。
企業ガバナンスにおける株主からの活発で厳しい議論。 スポーツスタジアムを満たす、熱狂的なファンの声援と叱咤。
これらは、時に耳障りであっても、社会の「健全なノイズ」であり、多様な文化そのものです。
法は、社会の実態や文化の文脈を無視して暴走してはなりません。田端氏の事件が示す経済界の萎縮、そしてスポーツ界に見る文化統制の兆候は、私たち全員に対する警告です。
個人の尊厳は守られなければならない。しかし、批判する自由もまた、死守されなければならない。
私たちはいま一度、立ち止まり、この侮辱罪という劇薬の「正しい処方箋」とは何なのか、そして、私たちが本当に目指すべき「自由で活発な議論」のある社会の姿とはどのようなものなのかを、真剣に議論し直す時期に来ているのです。
はじめに:現代社会と「侮辱罪」のジレンマ
主張概要: 2022年の刑法改正により、侮辱罪の法定刑に「1年以下の懲役もしくは禁錮または30万円以下の罰金」が追加され、厳罰化された。これはネット上の誹謗中傷被害者救済を目的としたが、予期せぬ副作用を生んでいる。
引用資料:
: 2022年7月7日に施行された改正刑法が、従来の「拘留または科料」に「1年以下の懲役若しくは禁錮若しくは30万円以下の罰金」を追加した事実を明確に示しています。
: 改正法には、施行3年後に表現の自由への影響を検証する「見直し条項」が付則として加えられており、立法府自身もその影響を慎重に判断する必要性を認識していたことを裏付けます。
関連リンク:
第1章:田端信太郎氏の事件が示す「公人」批判の萎縮
主張概要: 株主でもある田端信太郎氏が、上場企業の経営をSNSで批判し、侮辱罪容疑で書類送検された。これは株主による経営監視という正当な行為を刑事罰の対象とするもので、社会に衝撃を与えた。
引用資料:
: メルカリ社が従業員へのハラスメント行為で人物が書類送検されたと公表した事実、および田端氏の事案として弁護士が解説している情報が、事件の概要を補強します。
論点1:上場企業役員は「公人」ではないのか?
主張概要: 上場企業の役員は社会的な影響力が大きい「準公人」であり、一般人よりも厳しい批判に晒されるべきである。今回の侮辱罪適用は、健全なガバナンス機能を封じ込める「スラップ刑事告発」に近い。
引用資料:
: 法人は名誉毀損罪や侮辱罪の被害者になりうる一方、その行為が「公共の利害」に関わる場合は違法性が阻却される可能性があるという法的枠組みを示しており、「準公人」論の根拠となります。
: 政治家など公人に対する名誉毀損の判例は、公的な存在への批判が一定の範囲で許容されるという司法の考え方を示しています。ただし、のように職務と無関係な身体的特徴への言及は許されないという限界も示唆します。
: 弁護士会などが、厳罰化された侮辱罪が「社会的強者」によって批判的な市民を威嚇・萎縮させるために利用される危険性(萎縮効果)を警告しており、「スラップ刑事告発」という主張と合致します。
論点2:社員への批判と「間接表現」の罠
主張概要: 従業員個人への「無能」といった表現も、実質的には企業の経営・広報戦略への「間接的な批判」と解釈すべきである。これを個人への侮辱と広く解釈すれば、組織批判全般が不可能になる。
引用資料:
: 「詐欺不動産」「頭の悪い詐欺師」といった表現が、企業だけでなく経営者個人への侮辱と認定された判例があり、組織批判と個人攻撃の境界線が曖昧かつ、捜査機関の解釈次第で広がる危険性があることを示唆します。
論点3:司法・行政に求められる説明責任
主張概要: 侮辱罪の成立範囲は曖昧なままであり、警察や検察の裁量で恣意的に運用されれば、権力にとって都合の悪い言論を弾圧する武器となる。司法・行政は明確な基準を示す責任がある。
引用資料:
: 法務省自身が「侮辱罪が成立する範囲は全く変わらない」と説明しており、構成要件の曖昧さが解消されないまま厳罰化されたという論考の指摘を裏付けます。
: 厳罰化により、公訴時効が1年から3年に延長され、教唆犯・幇助犯も処罰対象となり、逮捕要件も緩和された事実は、国家権力の裁量範囲が拡大したことを具体的に示しています。
第2章:スポーツ文化と「ヤジ」規制の不均衡
論点1:SNS監視だけが先行する「二重基準」
主張概要: NPBはAIを導入してSNSの誹謗中傷対策を進める一方、球場での安全管理(横浜スタジアムの事故など)や秩序維持を怠っており、「二重基準」である。クラブに厳格な罰則を科すJリーグの対応とは対照的だ。
引用資料:
NPBのSNS対策:: 日本プロ野球選手会がAIを用いたSNS監視システムを導入し、法的措置も辞さない姿勢を明確にしていることを示します。
NPBの球場での問題:: 横浜スタジアムで観客が転落死する重大事故があったことを示します。 は、同スタジアムで阪神のコーチ陣が審判に集団暴行を加えるという、秩序の欠如を示す事件があったことを詳述しています。
Jリーグの対応:: Jリーグがサポーターの問題行為に対し、クラブに2000万円という高額な罰金やけん責処分を科した事例を示します。 は、差別的横断幕に対して無観客試合という極めて重い処分を下した事例を報じています。
論点2:「ヤジ」はスポーツ文化の一部か?
主張概要: スポーツは熱狂的な大衆文化であり、「ヤジ」はその一部として歴史的側面を持つ。差別的なヤジは許されないが、選手のプレーに対する叱咤激励まで一律に禁止すれば、文化が死滅する。
引用資料:
: 戦後のプロ野球において、ユーモアのあるヤジが応援団によって飛ばされ、応援文化の一部を形成していた歴史的背景を示唆します。
: 法的には、球場は「公然」の場であり、侮辱罪が成立しうること、また各球団が観戦約款で侮辱的言動を禁止していることを示し、文化と違法性の境界線が存在することを裏付けます。
論点4:技術(AI)の偏った利用
主張概要: AIという先端技術を、審判補助や安全管理ではなく、ファンの監視・規制という「統制」の道具として先行利用する姿勢は問題である。
引用資料:
: NPB選手会が導入するAIの目的が、誹謗中傷の検出、証拠保全、通報といったファン監視に特化していることを示しており、論考の主張を補強します。
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第3章:憲法21条(表現の自由)と侮辱罪の「あるべき距離」
侮辱罪の「謙抑性」とリアル/ネットの非対称性
主張概要: 刑事罰は「最後の手段」(謙抑性)であるべき。リアルな場のヤジ(一時的)とネットの誹謗中傷(永続性・拡散性・匿名性)は性質が全く異なり、同じ法律で一律に罰するには無理がある。
引用資料:
: 侮辱罪が「バカ」などの抽象的表現で成立しうる曖昧な犯罪であることを解説しており、その適用には謙抑性(慎重さ)が求められるという主張の前提となります。
: 総務省などの資料が、インターネットの「高度の流通性・拡散性」「永続性」といった特性が深刻な人権侵害をもたらす原因であると指摘しており、リアルとネットの非対称性という主張に公的な裏付けを与えます。
憲法が保障する「健全な批判」
主張概要: 憲法21条が保障する表現の自由は、権力を監視・批判するための重要な武器である。侮辱罪の拡大解釈的な運用は、「健全な批判」を萎縮させ、社会全体を「モノ言えぬ社会」にしてしまう。
引用資料:
: 憲法第21条の条文そのものを示します。
: 弁護士会などが、侮辱罪の厳罰化が表現の自由に対し深刻な「萎縮効果」をもたらし、権力者への批判を困難にすることで民主主義の根幹を損なう危険性を警告しており、論考の結論部分を強力に支持します。
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