序論:単なる「感情論」では済まされない問題の所在
「男性トイレを女性が清掃すること」の是非を問う論争が、周期的にインターネットを賑わせる。タレントの田村淳氏が呈した疑問をきっかけに、再びこの問題に火がついた。
「気にする方がおかしい」「自意識過剰だ」「清掃員も仕事なのだから我慢すべきだ」 「プライバシーの侵害だ」「無神経すぎる」「同性清掃に切り替えるべきだ」
「男性トイレを女性が清掃すること」の是非を問う論争が、周期的にインターネットを賑わせる。タレントの田村淳氏が呈した疑問をきっかけに、再びこの問題に火がついた。
「気にする方がおかしい」「自意識過剰だ」「清掃員も仕事なのだから我慢すべきだ」 「プライバシーの侵害だ」「無神経すぎる」「同性清掃に切り替えるべきだ」
議論は賛否両論に割れ、多くの場合、世代論や個人の感覚差、あるいは男女間の対立といった「感情論」の様相を呈して終息する。しかし、この問題の本質は、我々が思うよりもずっと深く、複雑な社会構造の変化に根ざしている。
なぜ、かつては(少なくとも表面的には)「当たり前の光景」として受け入れられていたはずの「おばちゃんによる男子トイレ清SO掃」が、現代において、これほど強い心理的抵抗感を生むようになったのか。
それは単に人々の意識が変わったからだけではない。
本稿では、この「トイレ掃除ジェンダー論争」が、実は「①インフラの劇的な近代化」「②それに伴う労働市場の構造的変容」、そしてその結果として生じた「③性的嫌悪感の質的変化」という、3つの巨大な社会的変動が交差する「事件」であることを解き明かしていく。
この問題は、インフラの進歩と労働者の待遇改善という、本来歓迎すべき「社会的進歩」が、皮肉にも「新たなジェンダー間の心理的摩擦」を生み出しているという、現代社会特有の深刻なジレンマを映し出しているのである。
この問題を議論する上で、女性トイレと男性トイレが持つ「決定的な構造の違い」を無視することはできない。それは「小便器」の存在である。
女性トイレの利用は、基本的に施錠された「個室」で完結する。利用者のプライベートは物理的に保護されており、清掃員が業務中であっても、利用者が「見られる」事態は能動的な覗き行為でもない限り発生しにくい。
一方で、男性トイレの小便器は、その多くがオープンスペースに壁付けで設置されている。利用する男性は、不特定多数の他者(他の利用者)が存在する空間で、ズボンのジッパーを下ろし、性器を露出し、用を足すことを強いられる。
この行為は、たとえ同性間であっても、本能的な羞恥心と一定の心理的ストレスを伴う。多くの男性が、無意識のうちに隣の利用者と一つ間隔を空けたり、視線を正面に固定したりするのは、この「見られる性」としての無防備な状態を、互いに意識しているからに他ならない。
この構造的な特殊性が、女性清掃員の入室問題を、女性トイレのそれとは全く異なる次元のものにしている。女性トイレにおける清掃は「空間の共有」の問題だが、男性トイレにおけるそれは「プライベートな行為の露呈」という、より深刻なプライバシー侵害の問題へと直結するのである。
では、なぜこの構造的欠陥が、これまで大きく問題視されてこなかったのか。それは、長らくその業務を担ってきた清掃員の多くが、高齢の女性、すなわち「おばちゃん」であったからだ。
ここで言う「おばちゃん」とは、決して侮蔑的な意味ではない。社会的な役割として、利用者の男性から「性的な対象」として意識されにくい、ある種の「脱性化(性を超越した存在)」されたアイコンとして機能していた、という意味である。
もちろん、当時も嫌悪感を抱く男性は多数存在した。しかし、「高齢の女性(=母親や祖母に近い存在)に性的な目で見られることはないだろう」という無意識の(あるいは、そう思い込もうとする)心理的防衛機制が働き、多くの男性は「気まずいが、仕方ない」と、その状況を我慢し、黙認してきた。清掃員側もまた、「息子や孫のようなもの」という意識で、その気まずさを中和していた側面があるだろう。
この「相互の非性化」という暗黙の了解こそが、小便器の構造的欠陥と、異性による清掃という矛盾を、かろうじて両立させてきた「糊」であった。
しかし、この「糊」が、今や剥がれかけている。
ごく自然なことだが、清掃員にも世代交代が起きる。さらに後述するように、近年の清掃業界の労働環境の変化(時給上昇など)により、この仕事はかつての「高齢女性のパート」というイメージから変容しつつある。
その結果、トイレ清掃の現場で、30代や40代、あるいはそれ以下の「一般女性」が作業する光景も珍しくなくなった。
この変化は、利用者の男性が感じる嫌悪感を「量的」に増やすだけではなく、「質的」に全く異なるものへと変えてしまった。
利用者の男性が対峙するのは、もはや「脱性化」された「おばちゃん」ではない。それは、日常において「性的な対象として意識されうる」、同世代あるいは年下の「一般女性」である。
かつて「気まずさ」で処理できていた感情は、「生々しい羞恥心」へと変化する。 「性的な対象に見られているかもしれない」という強烈なストレスは、もはや「仕事だから仕方ない」という理屈で我慢できるレベルを超えている。
これは、清掃員が性的な意図を持っているかどうかという話ではない。利用者の男性が、自身の無防備な状態(性器の露出)を「性的な対象となりうる他者」の視線に晒されるという、その状況自体が耐え難い苦痛なのである。
「おばちゃん」という緩衝材が失われたことで、小便器の構造的欠陥が、現代において初めて「性的羞恥心の問題」として直視されることになった。これが、今この論争が再燃する第一の、そして最も直接的な理由である。
この問題の根源を探るには、我々は「トイレ掃除」という行為そのものが、歴史的にどのように扱われてきたかを知る必要がある。驚くべきことに、かつての日本では、糞尿の「汲み取り」は男性の専門的な仕事であった。
現代に生きる我々にとって、人間の排泄物は「汚物」であり、一刻も早く下水道に流して処理すべき「コスト」でしかない。しかし、化学肥料が発明される以前の近世(戦国時代〜江戸時代)において、人糞尿は「下肥(しもごえ)」と呼ばれる、農業に不可欠な最高級の「資源」であった。
当時の農民たちは、都市部の公衆トイレや長屋の共同トイレに溜まった糞尿を、文字通り「有料」で買い付けていた。都市の住民は、排泄するだけでカネになり、農民はそれを買うことで作物を育て、その作物を都市住民が消費する。江戸や大坂といった大都市は、この「下肥」を介した完璧なリサイクルシステム(循環型社会)の上に成り立っていたのである。
長屋の大家にとって、店子(たなこ)が支払う家賃よりも、彼らの排泄物を農家に販売する「下肥代」の方が、よほど大きな収入源になることすらあったという。糞尿は「黄金」と同義であった。
ここで重要なのは、「資源」であったがゆえに、その扱いは現代の「清掃」とは全く異なっていたという点だ。
「下肥」を買い付ける農家や、あるいはそれを専門に仲介する「下肥屋(こえや)」と呼ばれる業者は、便槽に溜まった糞尿を巨大な桶(肥桶)に汲み取り、それを天秤棒で担ぎ、あるいは船(肥舟)や馬車で、都市から郊外の農地まで運搬する必要があった。
これは、想像を絶する「重労働」であった。数十キロにもなる肥桶を担いでの長距離移動は、強靭な体力を必要とする。また、どの長屋の糞尿が「質が良い」(=栄養価が高い)かを見極め、大家と価格交渉し、効率的に運搬するという、高度な専門性と商業的才覚も求められた。
当然、この業務の担い手は、ほぼ例外なく男性であった。
つまり、江戸時代における「トイレ掃除(の主要部分)」とは、現代の我々がイメージする「便器を磨く衛生管理」ではなく、「資源を買い付け、運搬する専門的・商業的な重労働」であり、それは明確に男性の仕事だったのである。
この「男性による汲み取り」という数百年続いた常識は、近代化の波によって根底から覆されることになる。主犯は「下水道」と「水道」というインフラ革命である。
明治維新以降、西洋から導入された公衆衛生の概念と、化学肥料の登場は、下肥の価値を徐々に(そして決定的に)下落させた。
そして戦後、日本各地で爆発的に普及したのが「水洗トイレ」と「下水道」である。
ボタン一つで排泄物を水に流し、地下の見えないパイプを通して処理場へ送る——この画期的なインフラは、人々の生活を劇的に清潔で快適なものにした。
しかし、それは同時に、糞尿が持っていた「資源」としての価値を完全にゼロにし、「処理すべき汚物」へと転落させた瞬間でもあった。
もはや、農家が貴重なカネを払って糞尿を買いに来ることはない。「汲み取り」という、数世紀にわたって男性が担ってきた専門的重労働は、その経済的基盤を失い、ほぼ消滅したのである。
「汲み取り」という中核業務が消滅した結果、トイレに関して残った作業は何か。それは、便器や床、手洗い場などを清潔に保つという、純粋な「衛生管理(=清掃)」のみであった。
この「清掃」作業は、かつての「汲み取り・運搬」とは決定的に性質が異なる。
この業務の性質変化は、労働市場の構造を劇的に変えた。
ビルメンテナンス会社などが請け負うこの「清掃」業務は、コスト削減の対象となりやすく、正社員がフルタイムで行う仕事から、時給制の「非正規雇用(パート・アルバイト)」が担う仕事へと急速に移行していった。
そして、この「軽作業」「単純労働」「短時間勤務」という3つの条件が揃った労働市場は、ある特定の層にとって、非常に魅力的な受け皿となった。
それが、家事や育児と両立しながら、扶養の範囲内などで働きたいと考える**「女性」**だったのである。
歴史的な「汲み取り」の消滅と、インフラ革命による「清掃」の分離・軽作業化。これこそが、かつて男性の職場であったトイレ管理の現場が、現代において女性(特にパートタイマー)の主戦場へと移行した、社会経済的な背景である。
物語はここで終わらない。もし清掃の担い手が、かつての「おばちゃん」のままであり続けたなら、問題はここまで深刻化しなかったかもしれない。
最後の引き金を引いたのは、ここ数年の「清掃員の待遇改善」という、皮肉な社会的進歩であった。
長らく「低賃金」「3K(きつい、汚い、危険)」の代名詞であった清掃業だが、近年、その労働環境は変化しつつある。深刻な人手不足を背景に、最低賃金が全国的に引き上げられ、特に都市部では、清掃員の募集時給も上昇傾向にある。
もちろん、業務内容に見合った正当な評価であり、労働者の待遇改善は社会全体として歓迎すべきことである。
だが、この「時給上昇」が、意図せぬ副作用を生み出した。
「匂いや汚れ(特に男性トイレ特有の)さえ我慢すれば、短時間で効率よく稼げる」 「専門的なスキルや、複雑な人間関係(接客など)が不要」
その結果、清掃業は、ある層にとって「割の良い仕事」として再評価されることになった。そして、その経済合理性に惹かれて労働市場に参入してきたのが、まさに第1章で述べた「30代~40代の一般女性」や、場合によっては「若い世代」だったのである。
ここで、我々が分析してきた全てのピースが繋がる。
これこそが、現代の「トイレ掃除ジェンダー論争」の全貌である。
結論は皮肉だ。「インフラの近代化(下水道)」と「清掃員の待遇改善(時給上昇)」という、本来は誰もが歓迎すべき2つの「社会的進歩」が、奇しくも「小便器の構造的欠陥」という旧来の問題と正面衝突し、結果として「新たなジェンダー間の心理的摩擦」を爆発的に増幅させているのである。
この問題は、決して「男性が我慢すれば済む話」でもなければ、「女性を男性トイレから排除すれば済む話」でもない。
「経済合理性」を求めて、これまでとは異なる層が特定の労働市場に参入することで、既存の価値観や社会心理との間に摩擦が生じる——。
本稿の分析のきっかけとなった「本質的には夜職やガールズバーなどで女子大生が増えている問題と本質が一緒」という指摘は、まさにこの構造を指している。経済的な動機が、社会のタブーや既存の秩序をいとも容易く乗り越えていく現象は、清掃業に限らず、現代社会の至る所で見られる。
我々が直面しているのは、単純な感情論ではなく、社会インフラの発展、労働市場の流動化、そして個人の尊厳という、それぞれが正しさを持つ要素同士が、複雑に絡み合って生み出した「構造的な歪み」である。
この歪みを直視せず、どちらか一方の「感情」だけを切り取って非難し合う限り、この論争に未来はない。
施設管理者は、清掃時間を明確に区切り、利用者の入室を制限する(パーテーションの設置など)といった物理的な配慮を徹底する必要があるだろう。あるいは、コストをかけてでも同性清掃を導入する決断が求められるかもしれない。
我々利用者もまた、清掃員が不可欠な社会インフラの担い手であることに最大限の敬意を払いつつも、自身の感じる正当な羞恥心を「自意識過剰だ」と抑圧する必要はない。
社会の進歩が、かえって個人の尊厳を脅かすというこの皮肉なジレンマを、我々は今、この「トイレ」という最もプライベートな空間で突きつけられているのである。
この記事のポイントを要約