1. オンラインの「評判」vs リアルの「安全」という歪な天秤
この問題の縮図は、横浜DeNAベイスターズの対照的な二つの対応に克明に見て取ることができます。これは単なる一球団の特異な事例ではありません。短期的なリスク回避とPR効果を最優先する、NPB全体に共通する「欠陥のあるリスク回避ドクトリン」の典型的な発露なのです。
先進的なデジタル要塞:誹謗中傷への徹底抗戦
DeNAは、SNS上の誹謗中傷対策に極めて積極的です。英国企業が提供するAIを活用した監視サービス「Threat Matrix」を導入し、24時間365日体制で選手への攻撃的な投稿をスキャンしています。その結果は具体的で、関根大気選手への誹謗中傷に対する情報開示請求が裁判所に認められるなど、明確な法的措置で成果を上げています。
この動きはプロ野球選手会とも連動しており、AIによる証拠保全システムを導入するなど、球界全体でオンライン上の「敵」と戦う姿勢を鮮明にしています。この戦略は、企業にとって極めて合理的です。
- 敵が明確: 匿名の個人という「同情の余地のない敵」であり、断固たる措置が取りやすいです。
- 成果が可視化できる: 「開示請求○件」という形で成功を定量的に示すことができます。
- PR効果が高い: 「選手を守るクリーンな球団」というポジティブなブランドイメージを構築できます。
技術で管理可能であり、法的に「勝利」しやすい。これこそ、現代の企業が好むリスク管理戦略の典型です。
崩壊する物理的な現実:組織的に軽視されるファンの安全
一方で、物理的な空間、つまり彼らが民法上の所有権に由来する絶対的な管理権を持つはずのスタジアムでは、どうでしょうか。2025年4月、横浜スタジアムで行われたアイドルグループメンバーのトークショーで、その杜撰な管理体制は完全に崩壊しました。
多数のファンがグラウンドになだれ込もうと貧弱な柵に殺到し、数人の警備員では到底抑えきれないパニック状態に陥ったのです。現場からは「押さないで!」「死人が出る!」といった悲鳴が上がり、イベントは危険と判断され中止。これは単なる運営の失敗ではありません。不特定多数の客を招き入れる事業者が負うべき最も根源的な法的義務、「安全配慮義務」の完全な放棄であり、一歩間違えれば韓国・梨泰院の雑踏事故のような大惨事になりかねない、組織的な怠慢でした。
この二つの事例が示すのは、恐ろしいほどの「優先順位の錯誤」です。球団は、自らの管理下で発生しうる**「人命の危機」という病巣そのものよりも、その結果としてネット上に現れる「評判の悪化」という症状の治療**に、遥かに多くのリソースと情熱を注いでいます。ファンとの直接的な衝突を恐れ、警備員の増員といったコストのかかる物理的安全対策を後回しにし、より管理しやすくPR効果の高いデジタル対策に注力する。それは、現実世界の統治よりも、世間の認識(パーセプション)の管理を優先するという、本末転倒なガバナンス哲学の表れに他なりません。
2. 責任を薄める「魔法の杖」:指定管理者制度という迷宮
なぜ、これほどまでに物理的安全が軽視され、責任の所在が曖昧になるのでしょうか。その構造的な要因の一つが、日本の多くの公的施設で採用されている「指定管理者制度」です。この制度は、行政のコスト削減と民間のノウハウ活用という聞こえの良い目的を掲げますが、その実態は関係者全員が責任を回避できる「迷宮」を作り出すという、深刻な副作用をもたらしています。
日産スタジアムの複雑怪奇な責任構造
その典型例が、Jリーグの横浜F・マリノスの本拠地・日産スタジアムです。このスタジアムのガバナンス構造は、責任の所在を意図的に霧散させるための芸術作品とすら言えます。
- 所有者: 横浜市(最終的な監督責任を負いますが、実務からは遠い立場です)
- 指定管理者(代表): 公益財団法人横浜市スポーツ協会(JVのまとめ役ですが、直接の運営主体ではありません)
- 指定管理者(構成員): 株式会社F・マリノススポーツクラブ(施設の主要利用者でありながら管理者の一員という、利益相反の可能性をはらむ立場です)
- 指定管理者(運営実務): シンテイ警備、ハリマビステムなど5つの専門企業からなる共同事業体(JV)(現場の実務を担いますが、予算と権限は限定的です)
仮に、ここでDeNAの事例のような警備不備による重大事故が発生した場合、どうなるでしょうか。各主体は、自らの責任を回避するための完璧な論理武装を用意しています。
| 主体 | 想定される言い分 |
| F・マリノス | 「我々はJVの一構成員に過ぎません。最終的な責任は代表団体か、所有者である市にあるはずです」 |
| JV(警備会社) | 「我々は代表団体から与えられた予算と指示の範囲内で業務を遂行したに過ぎません」 |
| 横浜市スポーツ協会 | 「具体的な警備業務の失敗は、実務を担う下請けの専門会社の責任です」 |
| 横浜市 | 「施設の運営に関する実務は、契約に基づき指定管理者の専管事項であり、市に直接の責任はありません」 |
このように、誰もが「自分は悪くない」と主張できる構造が出来上がっています。この責任の分散と希薄化こそが、積極的な安全対策への投資を阻害し、「何かあってから考えよう」という無責任な現状維持を助長する、ガバナンス不全の温床なのです。
M&Aや行政の迷走が示す「統治能力の欠如」
この構造的な欠陥は、クラブの経営の健全性をも蝕みます。例えば、マリノスがM&A(合併・買収)の対象となった場合を考えてみましょう。新たなオーナーは、チームの経営権だけでなく、この複雑怪奇なスタジアム管理の枠組みも引き継ぐことになります。抜本的な安全対策やファンサービス改善を図ろうにも、市やJVとの煩雑な調整が巨大な足かせとなり、迅速な意思決定を阻害するでしょう。
実際に、日産スタジアムのネーミングライツ契約更新を巡っては、横浜市と市議会が契約金額で対立し、市長が担当部局に再検討を指示するなど、所有者である行政内部でさえ一枚岩ではない統治能力の欠如を露呈しました。比較的単純な金銭問題でさえこの有様です。ファンと衝突しかねない一貫した行動規範の導入や、数億円規模のコストがかかる安全対策といった、より複雑で政治的な課題について、この利害関係者たちが一致協力できるとは到底思えません。
3. 法が及ばぬ「聖域」:NPBに根付く「ヤジ文化」と意図的な不作為
こうしたダブルスタンダードと責任の曖昧さが最終的に帰結するのは、スタジアムの「治外法権」化です。球団は、自らの都合に応じて法を適用する「選択的統治者」として振る舞い、スタジアムを一般社会の規範が及ばない、特異な無法地帯に変えてしまっています。
2022年の刑法改正により、社会では「侮辱罪」が厳罰化され、公の場での暴言は許されないというコンセンサスが形成されつつあります。NPB自身も、その「試合観戦契約約款」第8条で「誹謗中傷その他の迷惑を及ぼす行為」を明確に禁止しています。
しかし、現実の球場ではどうでしょうか。「給料泥棒」「さっさと辞めちまえ」といった選手個人の尊厳を傷つける侮辱的なヤジや、「くたばれ読売」のような相手球団を貶めるチャントが、長年にわたり「文化」や「熱狂」の名の下にまかり通っています。球団は、これらの行為者を特定し、退場させる完全な権限を持ちながら、それを行使しないことを意図的に選択しているのです。
対照的なJリーグの哲学:コミュニティに責任を負う覚悟
このNPBの姿勢がいかに異常かは、同じ日本のプロスポーツであるJリーグの対応と比較すれば一目瞭然です。Jリーグは、「リスペクト」という揺るぎない理念に基づき、問題行動に対して迅速かつ厳格な処分を下してきました。
- 浦和レッズサポーターがピッチに乱入し暴力行為に及んだ際、日本サッカー協会は17名を特定し、国内全試合への無期限入場禁止処分を科しました。
- 横浜F・マリノスサポーターが発煙筒やロケット花火を使用した危険行為に対し、クラブは関与した4団体を活動停止とし、73名に無期限入場禁止措置を講じました。
さらに決定的な違いは、Jリーグが問題を起こしたサポーター個人だけでなく、サポーターを管理する義務を怠ったとしてクラブ自体にも罰金やけん責といった処分を科す点です。これは、クラブに「自分たちのコミュニティに責任を持つ」ことを強制する強力な制度的インセンティブとなっています。NPBのように、ファンを単なる「顧客」として扱い、目先の対立を恐れて不作為を続けるのとは、ガバナンスの哲学が根本的に異なるのです。
4. 治外法権から責任あるコミュニティへ:新たなガバナンスモデルへの提言
NPBが直面しているのは、単なるイメージ戦略の失敗ではありません。それは、短期的なリスク回避を優先するあまり、将来の成長を支えるファミリー層や女性ファン、クリーンなイメージを重視するスポンサーを遠ざけ、法的、商業的、そして倫理的な長期的リスクを雪だるま式に増大させている、深刻な経営問題です。この歪んだ構造を是正し、真にファンと選手のための空間を取り戻すために、今こそ抜本的な改革が求められます。
NPBと加盟球団へ:選択的統治の終焉を
- 実効性のある統一行動規範の導入と厳格な執行: 「警告→退場→シーズン単位の入場禁止」といった段階的罰則を明記した透明性の高いルールをリーグ全体で導入すべきです。そして、Jリーグのように処分事例を公表することで、それが単なるお題目ではないことを示す必要があります。
- 物理的セキュリティへの資源再配分: デジタル監視に偏重したリソース配分を抜本的に見直し、全スタジアムで警備員の最低配置基準や専門的な群衆管理訓練への投資を義務付けるべきです。
- 「ヤジ文化」との公式な決別宣言: スター選手や監督、OBを起用した大規模な啓発キャンペーンを展開し、個人への侮辱や誹謗中傷は「熱心な応援」ではなく、コミュニティを破壊する「言葉の暴力」であることを明確に宣言すべきです。
自治体・施設所有者へ:責任の所在を契約書に刻むべきです
- 指定管理者契約の抜本的見直し: 将来の契約においては、警備不備や安全確保に関する最終的な責任の所在を、単一の主体(代表団体など)に明確に割り当てる条項を盛り込むべきです。「JV全体で責任を負う」といった曖昧な文言は、無責任の温床にしかなりません。
- 安全記録に基づくパフォーマンス評価の導入: 運営評価の指標を、財務状況や稼働率だけでなく、安全対策の実施状況やインシデント発生率と連動させる必要があります。安全を軽視する管理者は、市場から退場させる仕組みが必要です。
スポーツエコシステム全体へ:成熟したスポーツ文化の醸成を
- メディア・スポンサーの役割: メディアは、侮辱的なヤジを「名物」などと面白おかしく取り上げることをやめ、安全で誰もが楽しめる環境作りに尽力するクラブを積極的に評価するべきです。スポンサーもまた、契約条件にガバナンス体制の健全性を盛り込むことで、改革への圧力をかけることができます。
- 良識あるファンのエンパワーメント: クラブは、ファンが不適切な行動や安全上の懸念を、試合中に匿名でリアルタイムに通報できるシステム(専用アプリやSMSホットライン)を導入すべきです。これにより、声を上げにくい良識ある大多数が、コミュニティの自浄作用を担う力となります。
スポーツの真の価値は、その熱狂にあります。しかし、その熱狂が、選手の尊厳やファンの安全という揺るぎない土台の上にあることを、私たちは決して忘れてはなりません。施設管理権は、クラブが利益を追求するための「特権」ではなく、安全で公正なコミュニティを維持するために社会から信託された「責任」です。今こそ、その原点に立ち返る時です。